さらざんまい 妄想@みだりざんまい2

ここからは、考察にもならない筆者の勝手な「思い込み」と「妄想」で成り立っています。バカな事もしくは、見当違いな事言ってるなぁ、または「いや、そうじゃないだろw」と、観流してください。

 

 

「さらざんまい」の世界

 

私が現段階で思っているのは、先の記事にも書きましたが、「アニメ」と「現実」との繋がりのようなもの。この土・日でなんだろうなぁ…と考えてみたりしたのですが、いかんせんまだ2話しか放送されていません。その中で、こうじゃないか?と書き出すのは時期尚早だとは思います。が、こういう風にも見れないかな?と言うひとつの見方として考えてみたいと思います。

 

1話から、衝撃的なシーンがなんどもありました。まず未だに謎に満ちている「ア」

これは何の暗喩なんだ?と、誰しも最初に思います。上から落ちてきたと思えば、花びらのように舞ったり、街のあちらこちらにペタペタと貼られたり、設置されていたり。果ては、登場人物の衣服や小物にまでペタペタ。これだけ出されたら、気づかなかった!と言うほうが、どうかしてるぜ!状態です。どう考えても「ほら、君達こういうの好きでしょ?みんなで考えよー!」と、挑戦的なものを見せられている様です。結果的に思惑通り?になりました。しかも「ア」とつくモノの多いこと。これが他の文字であればまだ、候補が絞れたと思います。そこも絶妙です。愛・アンテナ・浅草・あなた・明日・ありがとう・アイス・赤・浅草・青・泡・網…もう、キリがありません。私は最初見たときに、頭に浮かんだのは「阿」でした。なぜかお坊さんのお話が、一番最初に出てきた。誰もが最初に何か浮かべたはず。果たしてそれは間違いなのか?いいえ、きっと間違いでは無いのだと思います。

実際の風景と比べてみても、アの場所に統一感がない。だとすると、「ア」には様々な意味が包括されている。と考えたほうが、すんなりと落ちる。時に愛であり、アンテナであり、浅草であり。特徴的なのは、1話・悠がピッキングをしようとしていたシーン。車の中、シートの上にも「ア」がありました。これはどういう事なのか?場所から言って、愛が落ちているとは思えません。アイスだと溶ける。浅草?意味がわからない。だとすると一番考えられるのは「アンテナ」 「ア」が「アンテナ」を意味するとすれば、その「ア」はスマホに置き換えられる。通常なら置き忘れる?と思いますが、置き忘れる場合も皆無ではない。もしくはわざと置いている人も皆無ではないでしょう。無理なこじつけになるかもしれませんが、2話で使っていた悠の携帯はガラケーでした。そのことを考えますと、車の中に「スマホ」を見つけた。それを取るためにピッキングをしようとした。と考えると、これまた、あぁなるほど。と思えます。スマホを盗んだ所で、使えるかどうかは謎ですが。ですが、ピッキングをしようとした理由としては、一番納得がいくものだと考えられます。

街の至るところにある「ア」の文字の一部が「アンテナ」だとしますと、確かに現在街中には、目に見えないだけで、様々なアンテナが張り巡らされています。それを可視化すると、さらざんまい世界のような感じになるのではないでしょうか。「ア」のひとつがアンテナである。ではなぜ、わざわざ「アンテナ」を可視化しなければならないのか。

アンテナがあるという事は、発信源があるはずです。さらざんまいの世界では、本当に美しくスカイツリーが描かれています。現在の私達にとってもある種のシンボリック的なものになっています。それを使い様々なメディアから発信される情報。この事についても先記事に書かせていただきました。そこからさらに考えますと、やっぱりさらざんまいと言う世界は、もうひとつの課題といいますか、メッセージ性があるような気がするのです。

 

アニメの中では、河童やカワウソという、え?なにそれ?と言ういわゆる謎の生命体が出てきます。尻子玉とか、実際見た人は居ないのではないでしょうか?それをナゼ描かれているのか。アニメだから。といえばそこまでですが、何せ幾原監督。無意味にただ河童を描いて見た。じゃないのは、いわずもがな。そこに何かしらの「暗喩」があるはず。と考えるのは、長年監督に親しんで来た者であれば、すぐに思い至ります。実際は「いや、河童描きたかっただけなんですが」かもしれません。が、それでもそこに、意味を見出す。無理にでも!これこそが、イクニストです。少々横暴ですが…。でもそれ位に、様々な見解と意味を見出せる。これも魅力である事は間違いないはずです。

上記を踏まえて考えますと、河童やカワウソも「暗喩」である。こう考えて見ます。では、何の意味があるのか?ここからは、かなりの妄想でもありますし、まだ2話段階ですから、今後大修正をしなければいけない前提で、仮説的に書き出してみます。

 

 

1話でケッピという、意味不明なUMAの河童の王子が出てきました。これを「幾原監督」と置き換えますと、より、明確になると思います。

3人の主人公達は、様々な思いをもって、これまた「欲望フィールド」と言う世界に入り込みました。そこが「アニメ製作現場」だとしたら。

尻子玉は欲望。この欲望はある意味「こういうものを作りたい!」という情熱だったり、こういうものが見たいんだ!という想いだったりすると思います。それを、ケッピが飲み込む。その人が作りたいものを、咀嚼する。汲み取る。とも考えられます。そして新たな作り手として、監督が「産み出す」こう考えますと、あの衝撃的なシーンも、なんとなく意味が通じる部分があります。

人力車のシーンも、王子自らが轢くんかい!と思いましたが、それも「さらざんまい」という作品にむかって走っていく。と考えましたら、車掌は監督ご自身です。その車に乗るのはスタッフの皆様。さまざまな人が乗っています。

 

カワウソ側も欲望を必要としています。これは視聴者側(もしかすると、これも製作者側かもしれませんが…)もっともっと見せて!と欲望をとどめる所を知りません。今度はどんなものを見せてくれるの?と、期待をもってみています。作り手側の苦悩も知るはずも無く。どんどん搾取していきます。逆に、面白い!と思えば、もっと造って!もっと見せて!と、欲望を膨らませていきます。カパゾンビに成り果てた物は、もっていた欲望を増幅させているように見えます。本当はこうしたかったのに…という事を忘れ、欲望に飲み込まれた姿。それがカパゾンビ。命を落としてまでも、満たそうとします。

カワウソ側も製作者側だとしましたら、人々の欲望、あれがみたい!これがみたい!という欲望を鑑みて、色々な作品を送り出している。とも取れます。お前らが見たいって言ったんだろ?的なもの。だからもっと、何が観たいのか言えばいい。と言うような。もしかしたら、もっと描け!もっとアイディアを出せ!そして枯れたらポイ。と言うような感じもあるのかも…?

それはもしかすると、アニメ世界の話だけではなく、様々なシーンで見られることかもしれません。初心、忘れるべからず。の様に。最初は夢や希望を持って、その世界に飛び込むけれども。その世界に揉まれているうちに、本当は何がしたかったのか。本当にしたいことはそれだったの?何のために?という、目的さえも忘れてしまう。ただ、欲望に飲み込まれてしまう。そうすると、ソレのみを造るゾンビと化してしまった。

それじゃダメだよ!と、3人組が立ち向かいます。本当にやりたい事ってそれなの?要望ってそれなの?じゃあ見せて…と。

3人の皿、頭を合わせるのは、一人じゃ出来ない事や思いつかない事でも、三人集まれば文殊の知恵。的に、それぞれが表現しきれない事も、他の人の知恵があれば出来る事もある。だから、あなたのアイディアや思っていること、作りたい欲望を共有する。と言う意味も包括しているのではないでしょうか。ある意味あのシーンは、アニメ制作における会議シーンみたいなもの。凄く爽やかでポップに描かれていますが、意識共有をする作業は、非常に大変だと思います。ですが、幾原監督にとって、それは非常に大事な作業なのだと思います。その上で、よりよい物を作り出す事ができる。なので最後にケッピがパクッと食べる。カパゾンビとなってしまった人の欲望も、綺麗に昇華しようとする。最後「死に損だ(にゃー)」と消えていきますが、もしかしたら、アニメの世界へ入ってきたけれども、現状に夢破れて辞めていく人なのかもしれません。せっかく夢や希望、自分がこういうものを作りたい!という情熱(欲望)を持って入った世界なのに、どれも叶えられなかった。ただ、その想いだけは汲み取る存在もいた。

こんな風に考えてみてはどうかな?と。繋がりは、人と人の繋がりを意味する事もあり、ひとつの作品を通して、発信側と受信側の両方を繋ぐと言う意味もあると思います。そこにどんな意味を持たせるのか、受け手側がそれをうまく受信できているのか。もしかしたら、制作側も想定していなかった展開があったりすることも。

まだモヤモヤと霧の中状態ですので、うまく書ききれていませんが。そして、本編のストーリーとは全く関係のない世界のお話・妄想でしかありません。でもそこに、何かしらの意味があるとするならばと考えたとき、ユリ熊嵐のリベンジとも感じましたし、その上で作り手側の熱意や苦悩、ソレと同じく受け止め側の希望や願望もなんとなく感じたりもします。なんでも造ればいい、迎合して本当に作りたいものを諦めるのか?売れればいいのか?みたいなもの。やりたいことを出来るのは、ありがたい事でもある反面、それだけ期待値もあがります。特に幾原監督は、期待値がかなり高い監督だと思います。

オリジナル作品を作る醍醐味は「他の何にも似てない」だ。そうでなければオリジナルという冠に意味がない。さらざんまい!

ご自身もこう仰られています。他の何にも似てないって、相当難しいはずです。今ではアニメジャンルだけでも、ワンクール何本のアニメが生まれている事か。映画もドラマも、当たらなければ忘れ去られる。駄作という烙印を押される。ですが、駄作と言われるのにも理由はあるはずです。時代に合ってなかった、何かの二番煎じ、こういうの作れば、視聴者側は食いつくだろ?という安易な思考。色々あるかと思います。ひとつのものが当たれば、それと似通ったものがどんどん出てくる。ハリウッド映画でもあるあるというものが、いくつもあります。

そういうものに逆らって、オリジナルにこだわり「他の何にも似てない」という、開拓者的な事をなさろうとするのは、言葉にするのは簡単ですが、凄い事だと思います。ここを観ている側の私も、さらざんまいからうまく汲み取りたいと、本当に思っています。そして多分、最後まで見ても「やっぱりよくわからない…」と、なるかもしれません。ここは全ての作品に共通して「見た人それぞれが感じ、こうなんだ。と思ったままでいいんだよ」と、言って下さっている様な…そんな作品になるのだと思います。ですので「よくわからない」も、間違いではない。だからこそ、2度3度と観たくなる。数年後に見たら、ああ!こういうことだったのか!と腑に落ちる事もある。そしてまたさらに数年後にみたら、あれ?これはこういう事じゃないの?と、新しい気づきがある。だからこそ、真の正解は用意されてなくて、曖昧な感じなのかもしれません。ただ、監督ご本人は間違いなく「テーマ」はご用意されておられると思いますし、今回は「繋がり」と仰られています。そのつながりが、私にも届き受け止められますように…と願うばかりです。その為には、もっと色々な事に興味・好奇心を持ち、知識を広げなければですが…。

 

もう少しお話が進んでからもう一度、本編であるストーリーと、裏にあるかもしれない世界を考えてみたいと思います。今はまだ本当に、何言ってるの?と自分でも思う事しか考えられずで、情け無い限りです。

そして勿論、本編も楽しみたい!です。そもそも本編も理解しきれていないのに、こうして書く事に意味なんて無いですし。