さらざんまい 考察:アバン・アの謎

本来なら、6話の話題に行くところなのですが、前半の終了・後半のスタート回ということで、考察的な事をしてみようと思います。勿論、私の主観・妄想・戯言ですので、思い違いや見誤りも多々あるかと思います。

 

昨日、立ち位置から見えるモノとダラダラと書きました。最初のアバンのシーン。ココで気づくべきことに、気づいていませんでした。

※あくまでも個人的な感想・考察です。

 

f:id:rarafoutune:20190414062147j:plain

このシーン。とても意味があった様に思います。

右から左に向かって走る。これは未来へ走っている。ここまでは同じです。また、わざわざ隅田川の横を走ることで、この物語が川から連想されるもの、時間や時と密接に関係しているのかも?川がメインになるのか等と、想像できます。

(一稀の服が、家族おそろいのボーダーで無くグラデーションなのは、ボーダーにもなり切れない、だからといって無地にもなれない一稀の心の揺れの表れだと思います)

このあと

f:id:rarafoutune:20190415050052j:plain

紙なのか、また別の素材のものなのか、バーナーの様なものでジリジリと焼いていき、輪ができあがってきます。その下からは、方眼・カッターマットが見えています。反時計周りですので、過去に遡ろうとしているのがわかります。

少し順番が逆転しますが、ここで先に大量の「ア」が落ちてくるカットをあわせてみてみます。

f:id:rarafoutune:20190517112117j:plain

先ほどのジリジリと焼いて作っていたのは、この大量の「ア」だと思います。素材はどうやら鉄。形から、道路標識みたいなものだろうなと推測できます。ここで大事なのは、素材ではなくて大量にあること。「ア」のない街中の風景は、違和感がありませんでした。普段見慣れている日常風景です。道路標識もそう。どこにでもあるもので、生活の中でルールとして受け入れているものです。その標識を使い「ア」としている点。普段見慣れない記号ですので「何これ!」となりますが、それをあちらこちらにある標識で表している。という観点から考えると「ア」はどこにでもあるものだ。と言う事が見えてきます。

 

 

 

 

 

f:id:rarafoutune:20190415050103j:plain

そのあとに、映る一稀の足。ミサンガ。このミサンガも、とても重要なんだと言う事を示唆されます。

f:id:rarafoutune:20190415050109j:plain

f:id:rarafoutune:20190415050045j:plain

このアバンではまだ、街の中に「ア」がありません。ですが、歩く人々がピクトグラム。しかも江戸風の髪型。

 

風に乗るように、右から左へむかって画面が移動し、「カズちゃーん」の声がします。今なら、春河の声だとわかります。

f:id:rarafoutune:20190415050118j:plain

桜の花びらの中、春河が走っています。

この声で、一稀が立ち止まります。そして、声のほうに振り向きますが、誰もおらず画面が揺れます。この画面の揺れで観ている側は、なにかしらの不安感や不穏な空気を感じます。

f:id:rarafoutune:20190517083341j:plain

ここで、昨日見誤った気がします。カメラの位置・映し方の角度が変わっています。画面の情報をそのまま受け止めますと、一稀は左から右に後ずさりしている事になります。ですので、過去に戻っている状態になるのです。

f:id:rarafoutune:20190517113242j:plain

そのあと、大きな「ア」が落ちてきます。主人公となる人物は、何かしらのきっかけや、アクシデントに合い、そこから様々な物語を紡いでいきます。ここでは落ちてきた「ア」がきっかけになります。きっかけとなるものは、ストーリー上大きな意味を持ちます。さらざんまいでは「ア」が、非常に大きな意味があるよ。とここで表されています。

f:id:rarafoutune:20190517114702j:plain

空にいきなり穴があきます。通常、空に穴が開くというのは考えられません。この時点で、この空にあいた奇妙な穴は異空間か、違う次元かもしれないと、考えます。そこから落ちてくるものですので、非現実的なものなんだろうな。となります。


f:id:rarafoutune:20190517114323j:plain

落ちてきた「ア」は、反時計周りでくるくる回りながら、まるで螺旋や螺子を思わせるような輪になり、一稀を通り過ぎていきます。ここは昨日も書きましたが、回るのですから、「ア」はループだったり、終わらないものだったり、循環しているのだろう事もわかります。まるで林檎の皮のように、1本で繋がっている様にも見えます。また、一稀に危害を加えるものでもなく、物理的に何かしら攻撃性のあるものでもない事もわかります。

 

一瞬映る、太鼓と河童のシール

f:id:rarafoutune:20190517115304j:plain

これは6話を見なければ、わかりませんでした。ケッピ曰く、カワウソに欲望を取られた事で、河童王国は滅亡した。との事でした。そうすると、太鼓は欲望を取る装置であり、そこに貼られたシールは、欲望を取られた河童たち。という構図だと思われます。ですので、目が×型であり、大事な頭の皿をカワウソマークに刺されて割れている図になるのだと思います。このシール型を、被害(?)にあった河童だと仮定すると、アは抽象的な何かではなく、具体的な物であると考えられます。河童はそのまま河童のイラストですからわかりやすいですが、わかりにくい「ア」になっている。「ア」が存在するのは、一稀たちのいる人間界。河童シールに置き換えますと、「ア」は被害にあって存在をなくした「人間」ということになります。

※ここからはかなり壮大な妄想になりますが。アが存在をなくした人間・死んだ人間だとするならば、一稀の体を通り抜けたアは誰?となります。一際大きなアです。一稀を弧を描きながら落ちていくア。循環しているア。命の繋がりや過去・循環と観たときに、このアは、一稀の実父なのかな?と思います。実母は出てきましたが、実父が出てきていません。養子にせざるを得ない状況があったとするならば、実父がもう、この世の人ではないと考えたほうが自然だと思います。

アバンから少々飛びますが

f:id:rarafoutune:20190420113946j:plain

尻子玉を取られたカパゾンビは、円から弾かれます。

f:id:rarafoutune:20190518024419j:plain

そして、違う円に取り込まれますが、これはトラッシュボックス的な、6話で言えばシュレッターの様なアを作る生成機のようなものと考えられます。

f:id:rarafoutune:20190518024628j:plain

そのあと

f:id:rarafoutune:20190518024709j:plain

f:id:rarafoutune:20190518024736j:plain

「ア」が出現します。アが同じ場所に必ずあるのではなく、増えたりして見えてたのは、新しく生成されているからだと思います。カワウソマークからアになるのは、カパゾンビが消滅し、そのままアになってしまった。街に取り込まれ、ある意味透明の存在になってしまいました。もう誰も気にしません。との解釈が出来ます。

屋内にアがないのは、日常に溶け込んでいる風景の一部というのは、家庭それぞれで違います。学校でも同じです。学校独特のものはあるかもしれませんが、それは学校という空間の中での話ですから、街では浮いてしまう。街の中で埋もれたたくさんの人たち。街の中の風景は、老若男女誰しもが同じように見えている日常風景のはずです。見慣れている風景であり、多少変わっても誰も気にしません。だからこそ、日常に紛れた標識で表現されているのだと思います。

ですので、アと言う文字になにかしら「単語」としての意味があるのではなく、ア=カパゾンビの成れの果て。もしくは、判定:愛 でもアになってしまうかもしれません。判定で欲望だろうが、愛だろうが、カワウソ側に拉致された者はどちらにしろ「ア」になってしまう。もしくは、尻子玉を抜かれるとそうなる。銀の輪の中に「箱田」や「猫田」という固有名詞がありますが、それは何者にもなれなかった、存在の消えた「ア」になります。

個としての表現で「消えた人間=ア」

a boyやa girlのaであり、個体としてのa→アであると仮定できます。aのあとに続くものもないですので、ただの「a」→「ア」

 

ナレーションで、「この街では、消えたものは忘れ去られる。店も、建物も、人も。新しいもので上書きされる。誰もその事を気にもとめない」こう言っています。ですので、新しい「ア」が増えようと、上書きされようと、誰も気にしません。日常の風景の一部でしかありません。命のある人は、自分と関わりがなければピクトグラムです。それもまた風景の一部でしかありません。

(OPのKANA-BOON『まっさら』で歌われている『背景、まぎれから 透明街の角
消えそうな声で泣いている僕らよ 最低な夜から 這って抜けるように 千切れた痛みと共に行けよ』この部分「背景 紛れから」が意味がわかりませんでした。 ですが、アが成れの果てで、風景に紛れてしまった。同化してしまったと考えたら、詞の意味もなんとなくではありますが、わかってくる部分があります)

 

ここは、ウテナの頃から一貫している「原初の愛」的なものを感じます。誰とも繋がらなければ、愛の芽もありません。誰かと繋がるからこそ、自分が存在している確認をし、そこに居る証明とできます。人と人との関係性は、始まりがあれば終わりもあります。人には寿命がありますから。繋がれないとはまさに、始まりもなければ終わりも無い。無い無いづくし。誰とも繋がれない存在となり、透明な存在としてそこに居なければならなくなります。例え死んだとしても、誰かが覚えていてくれたら、記憶の中に居ることができれば、その人とその人は、繋がっているといえるのかもしれません。何者にもなれなかった人は、死んで消え行くだけ。まさに「死に損」です。

 

 

f:id:rarafoutune:20190415050133j:plain

水の上の一稀。水面に映る建物。そこにアが落ちていきます。上記の仮定で考えますと、たくさんの人の魂や思いの成れの果てが落ちてきているとも言えます。

 

このあと、目覚めてアバンが終わるのですが、このアバンで様々なことがわかります。

1、アが落ちてくるまでは、アの無い街であった事

 (アが落ちてきて、街にある消えた人々の思い等が可視化された)

2、一稀の足にはミサンガがある事

3、春河が走っている事

4、上から落ちてきたアは、水の中にさらに落ちていく事

5、カワウソ太鼓と、河童のシールは、過去の出来事を表したものである事

6、夢から覚める形で、このアバンが終わっている事

 

2、3,6の時点で、これは過去の夢を見ているのではないか?と、最初は思いました。そして、何かしらの事件があり、1の状態からアのある街になったのではないだろうかか?と。

ですが、アの現れ方をみていたら、どれもこれも「過去」に結びつく様に描かれている様に思えてきます。また6話で明かされた、河童王国の滅亡という過去。それも、カワウソの太鼓と河童のシールによって、アバンに組み込まれていました。

 

そこで考えられるのは、3パターン

①一番最初に走っている一稀は、過去の一稀ではなく、現在進行形・2019年の一稀であること。ミサンガや春河が走っている事で、春河の事故前の事だとばかり思い込んでいたとも言えます。実際、春河の姿は出てきてませんから、空耳的なものです。足元しか出てきていません。そして、目覚めた一稀をみると、まるでアバンの夢から覚めたようにみえます。が、その時の一稀がどんな夢をみていたのかは、言及されていません。アバンからの流れで、そう思えた・観えただけでしかありません。

もしかしたら、アが落ちてきたのを基点に、過去・2016年6月~7月あたりの出来事を観ているのではないか?

こう考えますと、色々と納得の行く点もあります。特に、Beeタワーや、浅草観音温泉の謎。でもこうなりますと、学校にある2019年版カレンダーの謎が浮かびます。

 

②走っている一稀はおよそ1年前、春河が事故を起こす前日(ここは劇中で名言されませんが、前後の脈絡からの推測です)具体的には実母にあった後・見送りに行く前の日の姿。回想的に夢で見ている形である。夢から覚めた一稀が、2019年の一稀。ですがこれですと、Beeタワー・観音温泉の謎が残ります。ここは劇中では壊れていない体なのか、作中でも現実と同じ扱いとしていいのか、非常に困惑する部分です。が、レオとマブのTwitterから考えますと、何かしらの意図があって出していると考えられますから、現実と同じように、今現在はBeeタワー・浅草観音温泉は取り壊されていると考えたほうが良いのでは?と思います。

 

③完全なる一稀の夢。時間軸は、2019年。アバンは完全な夢として扱い、そこで様々な情報を詰め込んでいる。

 

上記の中で、素直に受け止めるのであれば③だと思います。ですが、個人的には①であってほしいとは思います。①ならば、過去の出来事を乗り越えた状態の一稀です。完全に乗り越えたとはいわなくとも、足にミサンガがある状態ですので、6話とも繋がっていくと思います。もっと言えば、現実と同じ時間軸、6話が終わった直後の一稀である。こうとも捉えられる・そうだといいな的ではありますが。ですのでまだ話は先があり、また、完全に家族との繋がりを信じられる状態ではなく、服もグラデーションなのかもと思ってみたり。時間軸の謎は、もう少し見なければではありますが、どこかのポイントで、アバンに繋がる何かが必ず出てくると思います。

 

ここまで書きましたが、本当に思い込みや見誤りが多々あると思います。この先も、物語を観て、訂正・書き直しをしていきます。

 

スマホでいろんなアプリを使って、つながりが日常的になっている時代」と分析する幾原監督が、「つながりたいという欲求と、つながりがうっとおしいという気持ちが混在している。そのままつながっていたらどこに行くのか、つながりを失ったらどうなるのか、つながりが必要なのか必要じゃないのかを描いてみたかったんです」

幾原監督は、さらざんまいについてこう語られています。一話を視聴した時に、スマホSNSなどの繋がりかな?現代の問題点みたいなものが、テーマなのかな?と単純に思いました。勿論それもテーマのひとつだと思います。作中にも、それを思わせるシーンも多々ありますし、ツールとして不可欠になっています。ですが、重ねて観ていくにつれて、そんな表面的な事じゃないのではないか?と言う気がしてきています。私個人の感想でしかありませんが、ネットでの繋がり的なものは、ユリ熊嵐で描かれていたように思います。また同じものをメインテーマに持ってきて、上書きされるような事もなさらないと思いますし。ただ、根底のテーマは一貫して「原初の愛」なのではないでしょうか。その中で、今回のさらざんまいは、人と人との繋がり。もっと大きなテーマな気がします。SNSだけではなく、この世に生まれてから死ぬまで、人はどんな繋がりをもち、そのつながりで何を得て、何を失い、その先はどこへ行くのだろう?と言う様な。生を受けた瞬間に、母親とへその緒でつながります。外へ出たら、へその緒は切れてしまいますが、個人として様々な繋がりを経験していきます。5話、うまれたばかりの春河は、一稀の指を掴みました。ここで、一稀は春河との繋がりを始めたのです。まあるい円で、つながりました。悠も燕太も、玲央も真武も、皆繋がりをもっています。そのつながりは、そこに存在する者としてどう描かれていくのか、後半が楽しみです。