さらざんまい 雑記

前回、第六皿の感想を書いたのですが。お友達から『細かい』指摘が…。こまけぇんだよ!!と、言ったものの、確かに言いたい事はわかる。わかるよ?でも、これだけは言わせて。私にもわからないものは、わからないんだよっ!あくまでも、妄想・捏造・憶測&思い込みでしかないんだからっ!実際全話終わらないと、ここはこうだ・ああだとは言えないのです。そして幾原作品の困った(うれしい)所は、全話終わったとしても、完璧に咀嚼しきるまで何年も、下手したら何十年もかかる。それは、延々とカタルシスを味わえるということでもあります。しかも、完璧に理解してるとは言えない、あくまでも自己理解の範疇でしかなく、正解は監督ご本人以外は、わからない。そして監督は、その事については絶対語られないでしょう。

 

具体的に、何がわからないの?と聞くと、まず「あっさりしすぎ!」との事。いや、語るべきことはアレ以上ないでしょ…。となりますし、あるとしても6話時点では、何も言えない。そう返したら、そうじゃない。例えばAパートの燕太のきゅうり枠。あれなんなのよ!と。「え?ウテナみたよね?」「もちろん」「じゃあ分かるでしょ」「そうじゃなくて!ウテナで出てきた薔薇がくるくる枠と同じなのはわかるよ。でもそれ、どういう意味なの?」ココまで聞いて、ああー!なるほど。言いたい事がわかった。と理解しました。ウテナみてりゃ、ウテナオマージュだということまでは、分かるはず。ですが肝心の、その演出の意味がなんなの?ということを知りたかった模様。子供ブロイラーもそう、ケッピの黒判定もそう。ピンドラであり、ユリ熊嵐であり。そこはわかるんだけど、演出の意味がわからないから、聞いてるんだよ!と言う事らしいです。確かに、確かに。言えば、今、私がCパートで謎に満ち満ちているな。となっている状態と同じと言う感じです。凌雲閣や関東大震災などは、浅草といえば。ですから出てくるのは大体予測できました。でもなぜ、それが河童王国にあるの?国芳はなんで?レオとマブが「見つけた!」といってみたり、何でお前が俺を庇う?と、不可解な言い回しをしたり、未来を繋ぐものだけが…とか、意味不明。みたいな状態と同じなんだろうなと思いました。ですがこれをみて例えば、月らしきものに影があるから、これは書き割りで…まさかの舞台演出?ああ、星の王子様は寺山版なの?ウワバミ的世界?とか、色々思います。でもこれも、ただの戯言・妄想でしかないのです。これを、お友達に伝えたところで、余計意味不明になるか、もしかするとそれに洗脳されてしまいます。しかも、言った本人でさえ、なんでそうなるのか説明しようにも、現時点では出来ないのです。

 

さらざんまいを見ていて、これは前の記事でも書きましたが…。幾原監督が「これを最後にしてもいい」という気概を、私は感じています。それは、所々にみられるセルフオマージュであったり、ぶっとんでいる斬新な演出であったり。特にセルフオマージュ的な部分、それは今までの作品のアンサーでもあると思うのです。何かといえば、謎が多い、意味がわからない、暗喩だらけと言われてしまう。一番はなんといっても「自己犠牲」 こういうものが、こう理解してくれたらわかるかな?と、わかりやすく見せてくださっている様にも思うのです。監督はご自身の口から、この作品の正解はこうで、ああで、と公には細かに説明は絶対になさらないですし、この先もなさらないと思います。アンサー的なものは、違う作品で提示するけれども、具体的に細かく、自分の口からは言わないよ。という姿勢は変えられないはずです。だからこそ、最後になってもいい。と言う熱意が伝わってきているのかもしれません。

 

なぜ、監督ご自身が言及・正解を話されないのか?

 

ここからは、私個人の推測でしかありませんが。監督は、物語が世に出るとき、それは視聴者(読者)の誕生であり、すなわち作者の死である。と考えられているのでは?と思うのです。物語が自分の手から離れたら、様々な解釈を生み、人それぞれ突き刺さる事や、感じ方は千差万別です。作者が語りたい事のみが、媒体を通して流されるものは、受け止め側には何も残りません。乱暴な言い方をすると、自慰でしかない。ですが、物語ですから起承転結は必要不可欠。山をつくり谷をつくり、ゴールを作る。この大前提の中で、自分の語りたい事をいれていくのではなく、受け止める人それぞれが、何かを掴んでほしいという余白を残されています。ですがそうなると、正解はなくなり、作者は死んでいきます。その見返りとして、新しい読み手が生まれていく。だからこそ、そういった作品は長く愛される。余白の無い作品は、見て終わりです。読み取りができるかどうか。その読み取りは正解も不正解もありません。読書感想文みたいなものもそうです。そうなると、幾原監督ご自身が、公の場で、ここはこうなんだ、ああなんだ。と話されたら、作者の死がなくなり、蘇ってきて今度は、受け手の死が待っています。監督が語られることは、全て正解になりますから。それまで、違う解釈をしていた人は、全否定されるのです。

受け手同士で、討論する事もなくなります。だって監督はこういってたよ?で、議論は終了です。そこはこういう解釈できるでしょ?いや、こうだろ?と、思考することこそが監督の望む作品の形のような気がするのです。だからこそ、暗喩もいれまくる。そこにはきっと、正解があります。でもその正解は何個もあるうちのひとつでしかなく、監督ご自身も意図しない正解が見つかるかもしれないという期待感。

 

ウテナはそれが、もっとも如実に出ていた作品でした。理解しようとしてはいけない。感覚で観ろ。的なアレです。ですがウテナでいう所の感覚は、言葉に出来ない美しさであり、共感できる内面の心情であり、アンビバレンスな感情であり。それを、可視化されたものでしかなく、その受け止めは人によって違うのです。だから、感情を揺さぶられる。だからといって、文字の羅列として表現するには、難しい。

ここでの登場人物の心情は、こうであったに違いない。これも、その人の感想でしかありません。さらざんまいにおける登場人物たちも、観る人それぞれに違う印象を与えています。同じものを観ても、実はこうじゃないのか?いや、こうだろう?と思える余白があるからこそ、楽しめる部分が大きい。ここを、台詞などで説明してしまうと、それが正解になってしまいます。余白を多く残そうとすると、その反動で意味不明な流れになってしまうこともあります。

6話でいうならば、春河が一稀の実母に

「カズちゃんを取らないで!帰ってよ!もうこないで!」と、訴えます。

このときの春河の心情は

①一稀が大好きだから

②家族としての円を壊したくなかったから

③知らない人は嫌い

色々考えられますし、上記全てが正解で、不正解かもしれません。台詞や行動ひとつで、共感を生み出し、反感を生み出します。

 

全てを説明してくれて、わかりやすく答えが用意されているものは、確かに見やすいです。が、ああ、こういう物語でしたね。で終わってしまう。その先にある、想像する楽しさが激減します。幾原作品では、私はこう感じた・思った。きっとこうなんだろうな。という思考する楽しさがあります。作中で様々なモチーフを織り込まれるのも、もしかしたらココから来てるのかな?と言う、違う世界への好奇心も沸き立ってきます。それをも踏まえて、作品を作り上げること、最終的には作者は死に至り、新しい創造主を生み出すという事。これは非常に難しく、誰しも出来ないと思います。

 

ウテナ劇場版で、西園寺とウテナが決闘するシーンがありました。その時ウテナは武器として、箒を折って使います。このシーンに脚本家の榎戸洋司氏は「女の子は、お姫様か、お姫様になれなかった女の子は魔女になるしかない。でも本当にそうなのか?という意味で、魔女のメタファーでもある箒を、ウテナが二つに折った」というお話をされました。

これは、脚本家自身が語られたことですから、もうそれは「完璧な正解」であり、それ以外の答えはありません。ではなぜ、答えを明示されたのか。難解だ、難解だ。言われすぎたから?確かに、難解すぎて頭が混乱する点は、否めません。ですが、物語を解き読むヒントとして、こういう風にみていけば、色々面白いし、難解でもないだろう?というほんの少しの種明かしだったと思います。そのひとつのヒントから、もしかして!と、目の前の霧が開けてくる。そうなるともう、面白さに気づき、永遠の心のバイブル(個人的感想です…w)となっていきます。なぜ、ウテナが車に変身するのか、なぜ某夢の国の城が、追いかけてくるのか。難解です。が、そこに込められているものを考えるとき、ああー!となるアハ体験こそ、脳内麻薬が放出される瞬間なのです。

 

今回のさらざんまいにおいても同じです。考察的に、ここはこうだ、ああだと語っていても、それはひとつの見方でしかなく、正解でもないのです。だからこそ、色々考える。さまざまな媒体を駆使し、直接関係のないものまで引っ張り出してきて、こうなんじゃないの?ああなのかしら?と、思考する。わかりやすさも大事ですが、思考する楽しさや、好奇心はそれ以上に大事なのだと教えてくださっている気がします。

ですので、6話時点でここはこうだろう。と書いたところで戯言でしかなく、全話終わったとしても、それは変わらない気もします。

それを踏まえて、こうなのでは?ああなのでは?と書いている事は、人からみれば馬鹿みたいwと思われるかもしれませんし、なるほど!と思われるかもしれません。

 

先に書いた、お友達の「ここはどうなの?!」的な、細かい指摘は、今私が、こうでしょ?ああでしょ。と言ったとしても、それはひとつの考え方でしかなく、しかも、脱線も甚だしいものかもしれません。なんでそうなんのよwと、笑われる事かもしれません。実際私も、お友達の考察?に、なんでそうなんのよwと、笑ったこともありました。ですが、感じ方は人それぞれですから、その考え・感じたことは不正解でもないのだと思います。

 

考えて欲しい、感じてほしい、思考停止するな!幾原監督からの、メッセージがたくさん盛り込まれてきた、少女革命ウテナ輪るピングドラムユリ熊嵐、そしてさらざんまい。監督ご自身のメッセージや叫びでもあり、私たちへのエールやメッセージでもあるのだと思います。