さらざんまい 尻子玉とタイトル

尻子玉について、新しいルールが提示されました。

尻子玉は移植できる。これをわざわざ言うあたり、何かしら意図が確実にあるのだと思います。今後尻子玉の移植が行われるのか、それとも過去にそういうことがあったのか。

気になるのは、尻子玉を取られると完全に存在が消えるという所。記憶からもなくなります。カパゾンビたちは、いつも写真から消えていきます。

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写真といえば、このシーン。悠の回のものです。引き出しにも「オレ」とあります。放送当時、オレって誰?といわれたのは知っていたのですが、もしも尻子玉を抜かれてた人物が、悠一家にいたとしたら?

オレの文字が消えないのは、謎しかないですが。オレが父だとしましたら、母は?となりますし、オレ文字には違和感しかないのは非常にわかります。

なぜ、オレが尻子玉を移植したのか。誰にしたのか。ご両親の死因がはっきりしませんので、借金苦?と思うしかありませんでした。ですが、子供二人を残したまま死ぬでしょうか?そうとは思えないのです。保険金で借金を返そうとしたとかなら、誓がお金の調達をする必要ありません。そもそも、事故でなくなっているのであれば、保険金がおりるはずです。でもそれもなかった。だとすると、保険を掛けてなかった。と思うのが自然です。ならば、借金苦の自死というのもどうなの?となります。

死ぬ意思はなかった。だとすると、不慮の事故と考えるのが一番です。そしてその時、悠か誓も一緒に居たのではないでしょうか。本当は消え行く命をオレなる人物が、どちらかに尻子玉を渡していたら。それで今も命を紡いでいる。記憶はなくなるけれども、なぜか温かさは覚えてる。それが飴?位牌もないですが、飴が供えられている点からも、綺麗に記憶がなくなった訳じゃない。ピングドラムチックになりますが、そう考えてもいいような気がします。だから、誓も飴を咥えている。消えた人物について、思い出す事ができるのかどうか。尻子玉の移植によって、記憶の改竄がされたとして、元持ち主の趣向等々は引き継がれるのか?オレは飴が好きだったのかもしれません。写真の通りだとしましたら、2007年の5月には、オレなる人物はいました。悠が10歳のときに両親が他界されていますから、その時に消えたと考えられます。

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写真の裏には「祭りの日」とあります。時期的には、三社祭あたりだとは思いますが、写真からは祭りの匂いはしません。わざわざ「祭り」と書いているのですから、それらしきものが映っていてもいいとは思いますが。何もないのに、祭りの日とは書かないと思います。実際あまり関係ないかもしれませんが、誓の左側、もしくはご両親の間に隙間がありますので、もう一人入れられると言えば、入れられます。でもこの予想は妄想でしかないですし、そうじゃないほうがいいかな?と想って居たりします。仮にそうだとしましたら、なんかもう、胸が苦しすぎます。

 

2007年といえば、レオとマブがTwitterを書いていた時期です。この頃は多分、ダークネス爆発もされていなかったはず。

 

もし、尻子玉の移植を過去にしていたとしたら、その移植をしたのは誰なのか?という謎も発生します。ケッピは一稀に「ここに降りろ」といいました。クロケッピシステムが判定する場です。そんなことせずとも、尻子玉搾取!といつもどおりにしたらいいんじゃないの?と思いますが、どうやら違うようです。一度肉体的に死を迎えてから、尻子玉を抜くというプロセスが必要なのかもです。

尻子玉の移植について、誰にでも出来るとは思えません。しかも、ココに降りてくださいといっている点からしても、黒ケッピシステムが必要。だとしたら、ダークネス爆発が必要なのか、そうでないのか。ケッピが尻子玉移植のできる存在だとしたら、オレはケッピに会っているということにもなります。どういう条件の人が、ケッピに会うことができるのか。見えるようになるのか。像を壊したら会えるのか、色々と謎がふかまっていくばかりです。もう少し考えてみようと思います。

 

後タイトルなのですが。

いままでは、つながりたい「けど」○○たい だったと思います。

6話では、つながりたい「から」○○たい に変化しました。

今後のタイトルを見ないとわからないですが、もしかしたら、クロケッピシステムで「愛」と判定されるものは、つながりたい「から」どう行動するのか。というものを持っている人なのではないでしょうか?単純にLOVEかLIBIDOで分けてしまうと、フロイト的には性欲になってしまって、そりゃ春河は愛になるわな。と、性に目覚めの無い年齢な子を連れて行くレオがわかりません。しかもフロイトは、父性にとても重点を置いています。いくらなんでも、父性がどうの、性の象徴がどうのでの判定システムとは思えません。

 

愛は「から」欲望は「けど」

タイトルはそのまま三人の心情になってますが、カパゾンビたちは「けど」という否定形だったのかもしれません。皆、自分の欲望を表す方法が間違えていた。猫山にしろ彼女に愛されたかったけど、それは叶わない。もし、猫になろうとはせずに、彼女が猫のほうが大事というならば、一緒に飼おうとか、自分も歩み寄りをしてみたり違う方法はあったはず。猫山に関しては個人的に、猫のほうが大事といった彼女は猫山自身に愛想つかせただけだとは思いますが…。モットクレーは、世界中の女の子に愛されたいから、自分を磨くとか、アイドルになろうとかするのではなく、相手を騙す事に走ってしまった。相手の事を考えてなく、自分本位だったのだとおもいます。蕎麦山にしろ、彼女に何か思いを伝えたのではなく、湯を盗んだ。なんだか、方法が違います。

春河の場合、欲望は「一稀と一緒に居たい」だから、相手の事を思う気持ちをとても大事にしていたと思います。自分の円の中に、一稀を受け入れていた。

欲望は誰しもありますし、否定的な事柄ではないはず。愛は円の中に誰かを受け入れているのか。欲望は、円の中に実は誰も受け入れてないのではないか。ひとりよがりじゃないのか?だから、欲望といわれる尻子玉は、誰しも持ちえているものであり、皿三昧の中では、その尻子玉にある欲望の種類がどうなのか?で、判定しているかもしれません。欲望のみか、欲望に愛はあるのかどうか。

ココでもう一度、アを観てみます。

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OPのアバンにだけ出てくるタイプの「ア」です。このピンクの円にだけ「TSUNAGARITAI」とあります。前にこの「ア」看板は、カパゾンビの成れの果てではないか?と書きました。その仮説を採用しましたら、この「ア」はカパゾンビは円の外に弾かれて孤立しています。もし、繋がれていたのなら、鎖のように連なっているはずです。なので、ピンク枠には「つながりたい」の文字。繋がれなかった人々。アの意味は「愛」かもしれませんし「I」かもしれません。愛で繋がれなかった人々。欲望は愛でもありますが、愛の無い欲望もあります。一言「欲望」という文字だけで考えてしまいますが、欲望にも色々種類があって、どの欲望なのかが大事だったり。身勝手すぎる欲望は、きっと暴走してしまうのでしょう。

 

さらざんまいで繋がることは、ユング的なリビドーであり、深層心理にある過去は人類皆繋がっている本能的、生命の意思である。という方向にいくのかな?と思って居たりします。ただこうなると、私なんかは頭がパンクしそうになり、心理学的要素を入れ込んで考えるのは、難儀だなぁ…となってしまいます。ですので、観たままを感じ取るほうが正解な気がしますので、心理学的な事はいったん、保留したいです。