さらざんまい 予告@第6皿目

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6話予告来ました!待ってた!

6話では、春河がどうやら鍵になる模様です。いつもの隅田川沿いの場所に、車椅子だけ残して、春河がいません!歩けないはずですから、一体どうしたのでしょうか。その前に、不穏すぎる手のひらが写ります。スマホのカワウソアイコンまで。ここまできたら、まさかカパゾンビにされてしまうの?!と、嫌な予想しか思いつきませんが…。

 

人間にもどれなくなった、一稀・悠・燕太。彼らは人間に戻れるのか。ケッピ、謎の電話体。スマホではなくて、昔ならではのダイヤル式。なぜ電話に。電話がこの形態なのは、前の5話を考えると「円」であって、ダイヤルが円状だからでしょうか。まあるい円で繋がっている。ということですから、ここから察するにこの電話は、春河に繋がる何かかもしれません。

水に飛び込む4匹。壁だかに、川獺の山・河童の川の相撲があります。どういうことだ。そのあと、どこかのアジト?らしきところに行きます。ここはいつも、ソイヤーソイヤーしていた場所の様です。ちらりと、カワウソマークの入ったダンボールも映ります。悠もピストルを発砲していますし、欲望フィールドなのでしょうか?それとも違う世界軸?燕太も泣いています。いったい何があったんでしょう。

順当に考えますと、春河がカパゾンビになっちゃう!助けよう!という流れで、ソイヤー舞台へ乗り込んだ。みたいな感じに見えますが。

一稀カッパの足にあるミサンガも、気になるところですし、ケッピが様々な形態に変身?しています。そんなに伸縮性が高いのか…。まるで、バーバパパ。最後にでてくる繋がれた太鼓。宇宙戦艦・ヤマトとか、バトルアニメ・ロボット系アニメで出てくる○○砲みたいな様相。

ナレーションも、一稀・悠とコンビバージョンと、一稀・悠・燕太トリプルバージョン。燕太シングルバージョンと3種。なぜ、燕太だけにシングルバージョン?

燕太に至っては、6話以降にちょっと黒い部分が見えるかも?と、燕太の声優・堀江瞬さんが、おっしゃられたそうで。なるほど。谷川俊太郎かな。などと一人思ってます。

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かっぱらった!かっぱらっぱ!な谷川俊太郎。『きみ』は、小学生の恋愛というか、性の目覚めの詩。相手が男の子であるので、ゲイの詩ではある。ただ、非常に不安定な時期・年齢だからこそ、性の目覚めが異性ではなく同性というのも、なんだかある意味小学生っぽい気もした。蛇になりたいひもの詩もある。紐は、最初と最後である、頭としっぽが欲しくて。みたいな詩。芥川でもあり谷川でもあるのかな?なんて思ってたり。

 

そういえば、レオとマブっていつも、「レオ」「マブ」と書いていたので失念していましたが、なぜ苗字があるのだろう?カワウソ側だろう事は、間違いないはずで、カワウソ側のカワウソ達は、人間界と同じように苗字がある名前?もしくは、人間界にもぐりこむ為の名前?吾妻サラにしてもそう。いつから「吾妻」がついたのか。ケッピはケッピなのに。逆になぜ、ケッピはケッピなのでしょうか。

色々と謎は深まりますが。放送がとても楽しみです!

 

 

雑記

さらざんまいが始まって、なるべく書かない・触れない様にしていた話題。いわゆるセクシュアリティー問題。見ればわかるレベルで、同性愛?!ってなる。これはもう、ウテナ…いや、セーラームーンの頃から彷彿としていたものである訳で。ただ、セーラームーンの場合は、幾原監督発信ではなく、原作・セーラームーンが、そういう傾向にあった。ミチル(ネプチューン)&ハルカ(ウラヌス)という耽美or耽美のカップルは、武内直子先生発信だ。原作では、ウラヌスの性別が非常に曖昧なことになっている。作中(原作セーラームーン)の中で、うさぎがミチルにハルカの性別について言及するシーンもあるにはあるのだが、うまく誤魔化される。というか、男でもあり、女でもあるのよ。と返答される。当時、原作を読んでいた身としては「性別なんていいんだよ!」と、読んでいた気もする。それはなぜか?単純に知識がないからだ。こういうと、はぁ?となるかもしれない。知識が無いというのは、同性愛について。ということであって、純粋にそこに描かれているものを受け止めていた。変身前は男性的なウラヌス。セーラー戦士になれば、女性的なウラヌス。そこに疑問は無かった。敢えて言うならば、人間としての愛。といえばいいのか。女同士だから百合だよねー。といったような感覚がなかったのだ。

※余談ではあるが、ネプチューンとウラヌスの変身バンクは、庵野秀明が絵コンテを担当している

その後、ウテナユリ熊嵐・さらざんまいと、何かしら同性愛を彷彿とするものが、前面に出てきている。もちろん意図してだとは思うが、単純に同性愛を描きたいのだろうか?私は、そうは思わない。だからといって、たまたま同性愛なだけだよ。とも思わない。じゃあ、LGBTへの問題提起?いやいや、そんな事も一切思っていない。

私が感じているのは、監督の「照れ」だと思っている。それこそ、は?と思われるかもしれないが。ユリ熊嵐とか、あれだけユリユリしい事させておいて、照れってwってなるかもしれないが、照れなのだ。男女の恋愛だと、身近すぎて描けないとか、物語としてエグさが増すだとか、洒落にならないだとか、理由はいろいろあると思う。が、根本的には、監督自身が「こっぱずかしいから」というのが、大きな要因だろう気がしている。シャイさが、男女のストレートな恋愛模様を描くことに、抵抗があるのかもしれない。仮に開き直って、男女の恋愛を描かれたとしたら。男女それぞれ側から、「そりゃ違う!」「いや、共感できる!」「そんな女、居ないでしょ!」「そうそう!」と、意味不明なカオス状態の物語になりそうな予感もする。幾原監督だからこそ、男女それぞれに向けての物語や心情を描けるのであって、男女の恋愛像というのは、幾原作品において、足枷にしかならない気もするのだ。

ウテナの時は、ウテナとアンシーという同性である二人を恋愛対象として置く事で、恋愛体系の常識=社会の常識という構図を描いていた。ここで、間違えてはいけないのは、何もLGBTをどうのと言うことを語っていたのではない。男女が恋愛をして、結婚をして、子供をつくり未来を繋ぐという構図は、社会の構図とも言える。社会の構図ということは、政治や社会感に通じていく。少女革命ウテナは、その世界を革命しようと言う物語。恋愛の構図を変えれば、社会自体も革命されるのではないのか?という、大きな命題があった。

どうしても、同性愛的なものに目が行きがちではあるが、そこは極論「なんでもいい」のだと思う。だからさらざんまいにおいて、燕太は時々少女っぽい妄想もする。少年っぽい行動も妄想もする。一稀に至っては、理由があったにしろ女装男子になる。性への線引きが、非常に希薄なのである。悠も女装・一稀に頬を染める。ここで、この子達は、みんなホモだな!と思うのは早計であるが、正しくもある。

この物語は、単にセクシュアリティーを描きたい訳ではないはずだ。

監督はインタビューで「今回は絶対に、耽美と言われたくない」と、語られた。確かに、尻子玉を取るシーンは、耽美とは言い難い。何を持って耽美といわれているのか?薔薇が散るから?花を背負ってるから?それだけではない。ウテナの劇場版は、それはもう耽美な世界すぎて、その世界にどっぷりと浸れる。見るシーン・シーンが美しいのだ。しかもまだ、セル画の時代。それを考えただけでも、感嘆する。エッシャーを思わせる学園から始まり、そこでもう、世界の虜になる。そこから怒涛の耽美界へと誘われるのだ。登場する人物たちはその世界の中で、われこそが!と、耽美を競ってくれる。

何度か書いたかもしれないが、私の中で一番耽美を感じたのは、ミチル(ネプチューン)とハルカ(ウラヌス)の、手を絡めるシーンである。これは、未だにNO.1の座を保守している。ウテナをもってしても、あの衝撃は越えられない。ここのシーンで花は出てこない。薔薇も背負ってない。ただ、手を絡めるだけ。なのにベストオブ耽美。美しすぎて、美しすぎて。なぜなのか。そこには、みちるとはるかの想いがあるからだ。その想いが、画面を通して手を絡めるだけなのに、伝わってくる。「僕の手は汚れている」というハルカに「あなたの手が好き」というミチル。二人の想いの強さが、ミチルの言葉で、綺麗に描かれている。本当に美しい。

でもこれは、ミチルとハルカによる恋愛という関係性の上になりたっているのであって、さらざんまいにおいて、そういう意味での耽美は、確かに無いかもしれない。だが、監督自身がお気づきで無いのかもしれないが、耽美さの欠片は、1話から感じ取れた。谷崎潤一郎のような端麗さ、月岡芳年のような、陰惨の中にある刹那的な耽美さ。江戸川乱歩のように、残酷でありながらも美しい。そういう世界観を彷彿とするような、期待感と欠片が、あちらこちらに描かれているように思う。これも決して、欝な絵にするのではなく、非常にポップであり、スタイリッシュ。それこそ陰惨なだけになりがちなものを、駄洒落やギャグ、細かな拘りで綺麗に変化させている。故に、耽美といわれたくない。というのは、無理である。どうしても耽美になってしまう。

尻子玉を抜くシーンを見ての予防線として「耽美といわれたくないから、がっつりやりました」と言われたのかもしれない。何も考えずに、思いをそのまま言われる監督ではない。ある程度考えて、発信しておられると同時に、監督の世界・脳内は監督にしか見えなくて、それをいかに具現化し、伝えていくのかということを、考えておられるのだろうし。結論的に「耽美といわれたくない」は、無理である。そう無理。諦めたほうがいい。美しくないものなんて、許せないのだろう。だから、無理。最終的にきっと、美しいか、そうでないか。何かを決定する際には、ここがポイントになっているのだと思う。耽美にならざるを得ないのだ。汚い世界なんて、イラナイ。ポイポイ。そして求めても居ない。※個人的感想

と、だらだらと書いたのだが、要は「セクシュアリティー」は、二の次。と言うことを言いたかっただけである。それは付加事項でしかなくて、メインではない。レオとマブは、どう見てもそれこそ、所謂BL的な耽美にならざるを得ない予感しかしない。これは、観ている者全員が、そう感じているはずであり、製作側の意図する所だろう。だがこれも、同性愛という視点よりも、人間愛という面のほうが強いとは思う。私はBLに明るい訳ではないので、ここは何とも言い難いが…。

 

もうひとつ、1話から感じている事。1話を見終わった時点で、幾原監督は、もしかしてこれを最後にするつもりで、作っているのではないだろうか?と言う事。これまでのセーラームーンシリーズ・劇場版、ウテナピングドラム、ユリ熊の集合体、総決算的な作品になるのではないのか?と言う事。これを最後に引退してもいい。こういう気概を感じたのだ。実際に引退する・しないではなく。だから、いままでの話数をみていて、昭和から平成にかけて、ああ、こういうのよくあるパターンだよねー。みたいな物を感じていたのではないか?とも思える。

「愛」 そして、今回大きなテーマになっているのだろう「繋がり」 このふたつは、今回だけではなく、これまでの共通テーマとも言える。所々に観て取れる、今までの作品を彷彿とするもの。レオとマブのソイヤーの最後は、これこそみな思った「ウテナ!」だと。出てくるものが、剣でないだけで。セーラームーンは、胸から幻の銀水晶がでてくる。ユリ熊では、ユリの花が?出てくる。何かしら胸からでてくる。ピングドラムでも、プリクリが冠馬の胸からピングドラム(心臓・林檎)を出す。何かしら、胸から出す・出す・出す。だが、全て必ず意味のあるもので、しかも悪い意味のものはない。胸から出すものの意味が、さらざんまいへも繋がるのか注目点だ。

インパクト大なバンクシーンもそうだ。セーラームーンの変身バンクは当時としては、非常に衝撃的だった。女の子が夢中になる要素が、これでもか!と言うくらいに詰め込まれていた。ウテナも、初見は「何これ?!」と意味不明さに、毎回その意味を探ろうと必死に食らいついた。当時はまだリピート放送もない時代であり、ビデオなんて撮ろうとも思ってなかった。だから一発勝負なのだ。そのせいか「絶対運命黙示録」という言葉の羅列が、ひどく印象に残った。そこから時代も変わり、私自身も成人になった。そしてピングドラム。もちろん、録画待機。ワクワクと懐かしさが蘇る。そんな想いで観たピングドラム。最初の「生存戦略」は、インパクトしかなかった。意味不明すぎる。それでも魅入られた。ユリ熊嵐の「ユリ承認」は、もう慣れたのもあるが、キタキタと言うものだった。ここで、インパクトよりも懐かしさを覚えた。きっと、セーラームーン的なものを感じたのだろう。そして今回のさらざんまい。いや…え…。いままでは一人変身なのに、変身のきっかけが河童により尻子玉搾取って。でもこれが、変身バンクだよね?的な、いままでとは違う気持ちに。それでもインパクトと言う面では、言うまでも無く。これまでの謎な変身バンクではなくて、さらざんまいは、非常にわかりやすいものではあるが、インパクトは絶大。

言葉の韻を踏む駄洒落やギャグ。これは変わらず。小物にいたるまで、細かい描写。これは、ユリ熊嵐でもっとも見られた物。クマと椿にこだわった小物類は、本当に素晴らしかった。今回も、河童に拘った小物が5話・サラちゃん控え室でふんだんに見受けられた。

そして、大きな共通事項として「水」がある。大事なシーンや、生死を分けるシーンでは必ず、水場や水が出てくるのだ。

セーラームーンで、ミチルとウラヌスの耽美シーンでは、屋内プールが描かれていた。ウテナでは、決闘広場へ至る扉や、プール、川、ありとあらゆる水が出てくる。ピングドラムでは、言うまでもなく水族館。ユリ熊嵐では、噴水やお風呂場。さらざんまいでは、この水が、非常に大きな意味を成している。そして、赤い糸。これも思い返せば、各シリーズで、象徴的に使われていた。その太さはマチマチで、糸だったりリボンだったりはしたが。こうして、振り返ると随所にイクニズムを見て取れる。さらざんまいでも、レオとマブの二人がダンボールで上下降しているシーンでは、赤い糸らしきものがたくさん伸びていたりする。各シリーズを重ねていくごとに、暗喩的なものはレベルをあげていっている。故に、わかりにくさが生まれてしまっている面もあるのだろう。それを受けてのさらざんまい。まだまだ中盤。この先どんな世界があるのか、非常に楽しみであるし、堪能したい。