さらざんまい アを再考してみた
注意!妄想成分が高めです
これまでも、ほぼ妄想や憶測で成り立っている部分が多々ありましたが、今回はそれをも凌ぐレベルです。ご注意ください。
5話までみて、もう一度「ア」を考えてみたいと思います。
前は「アンテナ」か「阿」かな?と思っていました。ですが、5話をみて「繋がり」を書いていることは間違いないのに、アがしっくりこない。
三人がさらざんまいする時に、皿が引っ付きwifiの波とアが出てきます。これは間違いなく「アンテナ」のアでしょう。
だとすると、アンテナマークはこちらのアであって、街中に溢れ返っている「ア」は違うアなのか?という疑問が出てきます。仮に街中に溢れるアが、アンテナだとしたら3人が見せるwifi風のヤツのはずですから。
だとすると、阿?これは正直、もし正解であっても「へー」レベルでしか思えないのです。だって、阿自体を完璧に理解しているとは思えない。お坊さんは噛み砕いて伝えてくださったのだと思いますし、修行も勉強も真面目にしていないのに、ちゃんと理解しているとは思えません。これは、横暴な言い方かもしれないですが、大体の人が同じだと思うのです。阿だよ。といわれて、なるほど!!と思えるのか?いや、ないだろwと。もくしは、そうだんだー。へー。としか思わないでしょうし、そうか!という、アハ体験がありません。もやっとしたまま。
そういったものを物語の中心にもってきて、こうですよ!とか、思想・理念みたいなものを説く?と思うのです。
アがなんだろう?と言うヒントは、アサクササラテレビのワンカット。アについてのヒントは、今の所ここしかありません。
これを見れば、誰でも「愛」でしょw となります。有名なドラマや、小説、ゲーム、アニメ。世界の中心で~は、叫ぶケモノ以来この手のタイトルを、結構見かけた時期がありました。でもどうしてもひっかかるものがひとつ。「アを御自由に御覧ください」これです。愛をご自由に?しかも御覧ください?愛の物語として、御自由に御覧ください。ならまだわかりますが、通常簡単に見えるものではないはず。それを除けばすべてア=愛で通じるのに。
レオとマブも、しつこいくらいに「欲望か」「愛か」を繰り返しています。これは、選択しろという問いかけではなく、その人が持っているものの、選別だと思います。実際ゾンビは何も選んでませんから。
そして、欲望搾取!となることから、ゾンビには愛がない。だから、川ウソマークの箱の中に入る。だとすると「愛」はどこへ?仮に、愛だよってなった場合、ゾンビはどうなるのでしょうか。そもそも欲望と愛の線引きがやっぱり曖昧すぎます。
なんだか女性誌にありがちな、「それは愛と呼べる?欲望と愛の見分け方」みたいな、ありがちすぎるサブタイトルが浮かびますけれども。そういうレベルのお話なのでしょうか。モットクレーみたいな男、最低だよねー!みたいな感じの。なんか違う気がします。
ですが、見ればわかるレベルのものであれば「愛」しかありません。川うそ交番の周りにアがないのは、欲望側だから。アのある街は、河童側。
こうなるとまた、疑問が浮かび上がります。カワウソもケッピも、欲望搾取と声高に宣言しているのです。
今回わかったのは
1 ケッピが尻子玉搾取する
2 河童になる(一稀・悠・燕太)
3 カパゾンビから尻子玉を奪う
4 ケッピに転送する 4-a 成功 4-b失敗
5 成功の場合、ケッピが消化し、河童から人間へ戻れる
6 失敗の場合、ケッピが消化できず、河童のまま
5の時点で、ケッピから三人にそれぞれの尻子玉が、戻されると推測できます。失敗したら、そのままケッピが持ったまま。なので搾取したままの状態。尻子玉とは欲望。欲望とは命。命をとったまま。カワウソと何が違うのか。最終形態がカッパかゾンビなだけで。ですが、カワウソは尻子玉は取ってなく、欲望を取っているのです。このあたりで、頭がパンクしそうになります。まったく持って意味がわからない。
だから、アにしろ、愛なの?と、単純に思えなくなっていく。そもそも、愛だとして街中に、アの街ですよ。愛溢れてますよ。愛ですからー!って、アピールする意味もわからない。家の中にはまったくないのはなぜ?愛の街とアピールする必要が無いからでしょうか。家の中に、町名の看板が無いのと同じで。火消しでよくみる「め組」みたいなもので、ここからはアの持ち場みたいなアピール。その中のロゴにしている「ア」は、愛の意味。
じゃあなぜ、1話アバンで大きな「ア」看板が落ちてきたのか。その前は「ア」の無い町だったのか。愛があるとか無いとかではなくて、アはエリア分けのロゴでしかない。なので、アンテナや具体的に何か使うためのものではなく、区分けの目印。なので、家の中や、屋内には見当たらない。
愛をご自由に御覧ください。ってなんだろう。自由にみえるのかな。
これも、ア=愛と置き換えるからおかしくなるのであって、あくまでも区分のロゴマーク・標識みたいなものだと考えれば、標識のアを御自由に御覧ください。アの地域を御自由に御覧くださいみたいに考えられると思います。
私視点からしたら、アニメのアなんですけれども。あくまでも視聴者目線であり、ストーリー上は関係なさそうですけれども。
ひとつだけ、愛をご自由に御覧くださいだけ、腑に落ちませんが、エリア区分としての「ア」というロゴマークである。ロゴマークの意味は「愛」である。
こう考えれば、愛であってもいけそうです。
○アを愛とする大きな理由
1 レオとマブが「欲望」か「愛」かと言っている点
2 川うそ交番付近には、ア看板がない
欲望側が川うそとした場合、愛が残る。
3 家の中・屋内にはア看板がない
ア看板が、地域区別のための標識
4 アサクササラテレビの標語。
ただし「アを御自由に御覧ください」は、疑問。
5 誰しもが、知っていて簡単にはまる言葉である
上記理由から、ア=愛にしてもいいんでは?と思います。
ただこれも、そうか!というようなスッキリ感は今のところありません。こうかな?レベルでしかなく。愛のアであっても、平仮名でなく片仮名な事にも謎が。そこはどちらでもいいだろ。アのほうが書きやすいからだろ。と思えなくもないですが、これだけ浅草という土地に拘り、ピクトグラムも昔風なのに、ア。ここは「あ」のほうが、しっくりくる様に思います。なのに片仮名の「ア」
私たちは一体、何をみているのか。月日の謎からして、過去の物語なのか。だとしたら、アルバムの「ア」記憶や思い出、想いという意味でのアルバムの中の世界。だから何度も回想が入る。漏洩という名の思い出が蘇る。
もうなんでも、アに繋がる気がします。アルバムか!と思えば、そうとしか思えなくなりますし。謎が解ける日が来ればいいのですけれども…。
一稀・悠・燕太の中のアルバムなので、彼らが知らない・関係の無い場所であるカワウソ交番あたりには「ア」が無い。これですと、屋内にアがないのが不思議に。あくまでも標識的な意味なので、屋内には無い。ここはこれでイイと思います。なら、墨田区側にも「ア」があった事も、アルバムで意味が通じそうです。
さらざんまいは、ア世界への移行部分のきっかけが、ア看板が落ちた後です。どう考えてもおかしな世界。ア看板がある・ものが飛ぶ。この二つだけでも謎に満ちています。そんなア世界をどう捉えたらいいのか。現実軸ではないことは確かの様に思います。回想でも、悠の漏洩でアマークが出ていました。EDでも実写にまじり、アマークがあります。
そういえばもうひとつ、ヒントになるかわかりませんが、OPで浅草界隈のピクトグラムがアに変わっていくシーンがありました。これも、上記で書いた愛より、アルバムのほうが、ピクトグラムの記憶や思い出がある。と考えるとなんとなく通じるような。川に落ちていきますから、関東大震災なども彷彿とします。ピクトグラムは、彼ら(一稀・悠・燕太)と関わりが無いので、印象に無くそういう姿?
そういえば、5話のアバンでじーさんの今際の際シーン。親類・ご両親は色がモノクロ風だったのは、光の加減かな?と思っていたのですが、一稀にとって鮮明な記憶ではない。それに比べて、春河はきれいな色でした。これは、一稀の記憶にしっかりその姿が残っている。医者・看護師はピクトグラム。印象に残ってないから。そう考えていくと、アのある世界は全て、彼らの思い出や記憶の出来事。学校の同級生たちがピクトグラムではないのは、少なからず関わりがあるから。
記憶や思い出の中の出来事だとすると、一体誰の記憶なのでしょう。彼らは「さらざんまい」することによって、それぞれの思い出や記憶を共有しています。1話アバンから考えると、一稀の記憶を私たちはみているということに?悠や燕太の記憶は、共有したので、みることができる。身も心も繋がっていますので、誰か一人ではなくて…。まさかひとつの個体に?!それは無いと思いますが。現在2019年ですから、物語の中で語られている2016年は、記憶の出来事・過去だというのは、間違いないはずです。ひとつの個体、海草ではなく、回想。もしかしたら…。彼らはケッピの中にいるのでは。尻子玉自体がケッピにあるのですから…。ケッピの中は水中。なので、海草ではなく回想。
よく言われる、人は二度死ぬで、一度目は肉体的に。二度目は記憶から消えた時に。
カパゾンビは完全に消えてしまうのは、二度死んでいるから?覚えていてくれたら、忘れずに居てくれたら、記憶の中で生きていけるといった風に。忘れてはいけない記憶で、アルバムもありそうな…。
1話アバンの、大きなア看板が落ちてきたのは、一稀にとって大きな記憶だから。
※OPのラスト、3人で肩を組み笑うシーン。この時彼らが着ている制服の襟がピンク。通常なら水色のはずです。夕日に照らされているので、アノ色になったのかな。と思うのですが、青がアノ色になるかなぁ?と疑問も。
ここで混ぜてみても、ピンクっぽい色にはならないので、もしかするとカッターが2色あるのかもですし、なんともいえませんが、気になるといえば気になります。1話の学校シーンでも、ピンクの縁取りカッターを着ている生徒は居ませんでした。
アの看板が落ちてくるのは、同じようなシーンをトゥルーマンショーでも見た気が。映画の最初の最初で、空からライトが落ちてきます。それを拾うトゥルーマン。空を見上げても、何も無い。雲ひとつ無い空。落下物は飛行機から落ちたということを、車のラジオで聞きます。
この時点で見ている側は、なんかおかしいな?と気づきますが、まだ確信はもてず。所々に、黒枠がでたり、意味深な台詞のいいまわしがあったり。何かしら、もやもやする感覚になるのです。
徐々にトゥルーマンがすむ世界は虚構だったということが、わかってきます。彼の人生を覗き見する視聴者。彼自身はそのことに気づいてません。彼の住む街は全てセット。彼の周りの人々は全てエキストラ。ですが、さまざまなミスが重なり、主人公が疑念を抱き始めます。そこから彼は、作られた虚構に抗おうとしますが…。
個人的な感想ですが、この作品の主人公・トゥルーマンを演じているのはジム・キャリーが、気持ち悪い…。他の作品はそうでもないのに、この作品だけ、むしょうに気持ち悪く感じるのです。確かに虚構世界に生きているのは辛いでしょうし、それ以上に怖い。ですが、演技のひとつひとつ、台詞のひとつひとつ、全てが後半から気持ち悪くなっていきます。ほぼ病気。そういう環境にいたら、狂ってしまうというか、何をどう考えていいのかわからない状況に陥るのも、わからなくもないですけれども…。常人じゃなく、周りの人への不信感からか、すべて敵とみなしているというか…。なんせ気持ち悪いのです。
物語は最後、放送が終了し砂嵐画面になります。その瞬間、それまで熱狂していた視聴者は、チャンネルを変えろ。と、興味を失くします。トゥルーマンの人生も、ひとつのコンテンツでしかなく、消費されたら終わり。このあたりは、製作者側が訴えかける何かがあるのかも。