ユリ熊嵐 ~少女よ神話になれ~

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完全に妄想日記です!!!

 

 

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来週9話。とうとうラストに向かって動きだすのかな?と思います。

様々な謎が残っていますので、それをどう畳み掛けて下さるのかとっても楽しみですよね♪来週の月曜日が待ち遠しいです><

 

待ちきれないついでに、色々な妄想をしてみようと思います。

タイトルにある「少女よ神話になれ」は、そうあのアニメ「少年よ神話になれ」からお借りしています。

 

 

2話目くらいから、ぼんやりとですが「エヴァに似てるなぁ」と思ったりしていました。最終的には「おめでとう」的な、君は君のままでいい。あなたはここに居ていいのよ。なラストになるのかなぁ?とも思っていました。

ですが監督も違いますし、幾原監督と言えばウテナ・ピンドラですから、そちらとどうしても比べてしまうし、重ねてしまう。

でもやっぱり…。ここまできて、何となくエヴァ的な物が、私には感じる部分があるのです。

(※私はエヴァンゲリオンに関しては、ど素人枠過ぎるので、間違いが多々あると思います><ですが決して、エヴァンゲリオンと言う素晴らしい作品を、貶める意図はありません。もし、ご気分を害されましたら、ご容赦ください><)

         

人類補完計画なるものは、人類皆が1つの個体になる。と言う事だと私は理解しています。争ったり、傷つけあったり、他人との壁(ATフィールド)を作るのではなく、融合してひとつとなり、安らぎに満ちた世界で、皆がひとつの個として存在する。と言った計画。

その鍵となるものがたくさん出てきました。その中でも、主人公「碇 シンジ」という少年。劇場版~まごころを君に~では、彼の選択に人類の行く末が委ねられて行きます。彼が望んだもの…。それは、他者の存在がある世界だったのだと思います。「自分が必要とされている、ここに居ていいんだ」という確認は、誰かの中に自分と言う存在を認められたとき。これは一人では、決して感じる事の出来ないことです。

テレビ版では、他者を認める事で、彼は「ここに居ていいんだ」「僕は認められているんだ」「生きていていいんだ!」となり、真っ黒の空間の壁が破れていきます。

 

人類補完計画は、取り込む事。これはユリ熊嵐における「食べる」という行為に、とても似ています。特にユリーカは、それを彷彿としました。

 

愛というモノは、目には見えません。そして、真心というモノも。目に見えないモノではあるけれども「感じる」事は出来ます。何をもって、愛や真心と言うのか。というのは人それぞれ。感じ方も違います。ですが、皆共通して必ずある事。それは、自分以外の「他者」の存在です。この「他者」が居ないと、どちらも成立しない。自分の存在確認が出来るのは、誰かに自分と言う存在を認識してもらえているから。承認されて、受け入れられているからです。

 

エヴァンゲリオンでは、この「承認からの存在確認」が掘り下げられていた様に思います。誰しも他者がいるから、傷つき、恐怖する。他人の目が怖い。嫌われるのが怖い。でも居なくなれば、最初からそんな事ありもしない。承認欲求だって生まれる事もないのです。ですが、自分たちが生きてきた証や、歴史、もがき苦しみながらも生きてきた事全て、それさえも無になります。存在を認める「存在」がないのですから。

 

ユリ熊嵐・7話での銀子は、この「存在確認」を、心から欲していました。イジメクマー達にいじめられては居たけれども、彼女らに銀子は「存在」を認められては居たのです。喧嘩していましたが。ポカポカ殴られていましたが。ですが「ごはんよ~」と呼ばれて、皆が帰った後、銀子のことを「確認」してくれるモノは誰もいなくなります。存在していないのと同じ状態です。孤独・寂しさの根底は「誰からも、存在を確認してもらえていない」と言う物があるのだと思います。

 

だからこそ、承認される事、他者の中に自分と言う存在確認をする事、これが愛情の元になっているのだと。そうすれば、孤独や寂しさから解放される。

 

愛という物を描くときに、自己犠牲や、見返りを求めない愛。というのもあるかとは思います。ですが、もっともっと奥に流れているもの。それは、「存在確認」だと私は思います。

エヴァンゲリオンしかり、ユリ熊嵐しかり、この二つの作品は「原始の愛」について、凄く考えさせられます。

 

ウテナもそうでした。ラスト、ウテナは誰からもその「存在」を忘れられてしまいます。そこにはもう「愛の芽・愛への期待」はないのです。ですが、アンシーは愛を捨ててはいない。一人でも、自分の存在を知りえるヒトがいる。それだけで、ウテナは愛を手にしていると言えるのではないでしょうか。

 

ピングドラムでは、二人の兄弟が消えてしまいます。作中で、プリンセス・オブ・クリスタルが何度も「生存戦略」と叫びます。そして「きっと何者にもなれないお前たちに告げる…」と。色々な解釈があるかと思いますが、私はここに、輪るピングドラムの全てがあると思っています。何者にも慣れないと言う事は、存在しないのです。存在しないのですから、何者にもなれる訳がありません。だからこそ、生存戦略をして、存在していなければならない。そのためにはピングドラムが必要。ピングドラムとは愛の形。終盤で箱に入った冠葉と晶馬が、りんごを分けあいました。これも、誰かがいるからこそ、分け合えるのです。一人だったら必要ない。分け合う事で、お互いの存在確認をしています。

分け合い、与え合う事で、他者との関わりを持ち、自己確認ができる。相手に自分の存在を承認してもらう事で、お互いの存在確認ができる。その先には、自己犠牲や、見返りを求めない愛情と言うものが、あるんだと思います。

ピングドラムという、具体的なモノが出てきましたが、それそのものが、意味があるのではなく(だからと言って、無いわけではないですが><)それを介して、分け合う・与え合う行為が輪っているのです。誰かの為に、何かをする。これは、自分という存在を認めてもらえているから出来る。その人の中に自分がいるから。もちろん逆もあります。その存在が真悧だったのではないでしょうか。ですが、彼も「愛」はあった。彼も愛を欲していたんでしょう。

 

愛というものは、時に利己的で、自分勝手なものです。違う存在のものが、お互いを受け入れて、そこに特別な感情を抱くというのは、美しいようで儚い。愛の形が歪んだヒトもいる。ですがそれも、愛は愛なのです。そこにその人を必要としているのであれば。道具として必要としているのではなく。

その人の存在そのものが、自分にとっての愛である。と気づけたのならば、きっとユリーカは澪愛を食べずに居れたのかもしれません。

ピンドラでの二人の兄弟、彼らは陽鞠と苹果の存在そのものが、自分たちにとっての愛である。と気づけたからこそ、その身を焼き、その身を砕いた。ウテナは、百万本の剣を受けた。

そして、ユリ熊嵐でこのことに気づいたのは、泉乃純花でした。

自分の愛、スキは、紅羽がそこに居て花のように笑っていてくれる事。彼女の存在を見ている事。存在を確認し、その上で笑っていてくれる紅羽を求めたのです。その気持ちを、利用しようとした薫も一見、下衆いな!と思いますが、彼女もユリーカの「特別な存在」として、彼女の中に自分が居る事を求めたのです。

 

幾原監督は、このあたりを等身大(かなりイリュージョンが入ってますが…)で描かれ続けておられて、庵野監督は壮大に描かれているのではないかな?と思うのです。

両者様共に、愛になる前…原初段階の「承認」、他者の中にいる自分を確認する事について、言及なさっているのではないでしょうか。ですので、根の根の根を観れば、もしかすると両監督様ともに、テーマとしては同じ部分がある様に感じます。

ただそれを、どういうアプローチで、どういう世界観で描くのか?と言う事で、180度違う作品になったりする面白さ。

また違う作品になりますが…漫画「MONSTER」のヨハンは、このあたりがより具体的に伝わってくる作品だと思います。

 

登場人物それぞれがそれぞれの、愛と葛藤を抱えています。

承認する事から愛は生まれる。愛の喜びは、愛するヒトの中に自己の存在を確認する事。自分が必要とされていると言う実感。

 

当たり前の様で、当たり前で無い事。承認されて、あなたはココに居てもいいんだよ。あなたは存在してていい。と与えられる事。必要とされて居る事。こういう事を考え、その上で、改めてユリ熊嵐を見たときに「ユリ、承認」という言葉が、どういう意味を成して行くのか。どういう意味があったのか?と考えてしまいます。

今の所「ユリ、承認」と言うのは、クマ状態からヒト状態へとなる「承認」だと思っていますが…。もっと深い意味があるのかもしれませんし、これが正解かも謎な所です。

 

銀子のいう「本当の友達」とは、何でしょう。

 

 

皆、刹那的に愛を求めてるように見える中で、イレギュラーな存在が蜜子でした。イレギュラーというよりも、彼女はある意味「まとも」です。今の所。ユリダークな存在の様ですが、私達の感覚からすると、平均的な人物です。あのセカイの中の、周りのほうがイレギュラーです。

システムには逆らわず、敵も作らない。ですがクマですから、クマはヒトを食べるモノ。なので、食べます。普通です。そして、色仕掛け(?)的な事をしてるように見えますが、そうではなくて普通にフランクでフレンドリーに、他人に接しています。オープンマインドで、見た目はとっつき難そうですが、話してみたら、優しくて、可愛い、楽しい子だった!と言うだけ。自己の存在を肯定し、その事を他者にも伝える。という基本的なコミュニケーション能力を持ちえている。そう思えば、平均的な女子高生です。

ただ1点、自分より少し劣った子を友達にする。と言うのは、ユリダークです。このみが可哀想。

このみは、蜜子に撃ち抜かれてますし。

 

多分、このみは蜜子の事が、本当に好きだったのだと思います。そして蜜子も、このみの事をスキだったのではないでしょうか。

だから、蜜子はこのみを撃ち抜けた。3話で蜜子は紅羽に、絶対に撃てない。と言い切ります。紅羽は蜜子の事が「スキ」ではないから。

8話で、弾丸を受ける事、それが約束のキス。だと言ってましたので、両者のスキが共有できていないと、撃ち抜けないのでしょう。その事を銀子は、理解したのかもしれません。

だとすると、蜜子が撃たれた時に、蜜子と「スキ」を共有している人はいないはず。猟銃を持っていたのは、銀子・るる・紅羽なのですから。

ここで9話の予告が、頭によぎります。もし、約束のキスが弾丸ならば、蜜子は生きているという事に。

 

 

 

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愛にはまず「承認」があり、そこから様々な感情が芽吹きます。独りよがりの愛情は、時として行き過ぎた「エゴ」にもなります。どう他人と向き合うのか。愛する人の中に、自分のと言う存在を確認できる喜びが、どう変わっていくのか。それを無くしたらどうなるのか。

このあたりが、描かれていくのかなぁ?と思ったりしています。

 

愛情の形は人それぞれで、答えや正解はありません。

それでも、物語には「結末」が必要です。ユリ熊嵐の結末は、どこに行き着くのか。とても楽しみです♡